■第6次東日本大震災救援・復興ボランティアに参加して(2013年6月1日)
  林俊郎さんの報告

災害時のままの船の墓場(四倉町) 5月26日から29日までの第六次東日本大震災救援・復興ボランティアに参加して、福島に行きました。あらためて東北大震災の惨状をこの目で見てきました。参加者8人全員が辛く悲しい、「百聞は一見にしかず」の体験でした。

 福島に到着し、一番最初に行ったのは、帰還困難地域の富岡町。警察や消防が絶えず行き来する地域や厳重なバリケードが張られた通行禁止区域の前にも案内されました。
高い線量を示す線量計(富岡町)
 富岡町はこの三月に出入りだけは可能になった町ですが、まず、一番最初に全員が絶句したのは、富岡駅前の惨状です。上下線のホームの間に放置されたままの自動車、タイアもなく、粉々に潰れ、レールも見えないほどの草ぼうぼうの中にあり、また改札入り口の10メータ-ほどの手前にも一台。この2台にも誰かが乗っていて、犠牲になった人の車と思え、涙をこらえたのは私一人ではなかったと思います。

震災の時刻が止まったまま(富岡町) 駅前の商店街、放置された自動車がいっぱいでしたが、壊れたお店のなかにも一台の軽トラが流入したのを見て、またまたビックリでした。壊れたパーマ屋さんの壁には、「午後2時46分」を指したままの時計、美空ひばりの「みだれ髪」で有名になった「塩谷岬」の近くの中学校体育館の外壁の「2時46分」時計も見て、この2年間、文字通り、時間が止まっていると実感しました。地震と津波と放射能汚染の3重苦、加えて無責任な東電と政府が時間を止めていたのだと思わざるを得ませんでした。

 各地を廻る車の周辺では,放射能を除染する作業車と防護マスクをした大勢の作業員の作業を見たとき、またわれわれが車を降りて、付近を見学する時、放射能測定器がぴっぴ、ぴっぴと激しく鳴りました。当然とはいえ、被ばくを初体験したその瞬間、不思議な無力感に陥ったのも、私ひとりではなかったと思います。

 こうした「風景」、時間の止まったような「風景」のなかに、異様な光景がありました。草ぼうぼうの田畑、崩れかかった民家、ロープが張ったままのガソリンスタンド、商店と商店街。その草ぼうぼうの田畑のなかに、放射能の除染作業ででた汚染物質が何千個もの黒袋、1立方ほどの黒袋に入れられ、何箇所にも置かれています。まさしく仮り置き場です。その場所の出入禁止のたて看板には、前田・鴻池組などと大手ゼネコン名。こんな所にも大手ゼネコン!とまたビックリです。

 Jリーグビレッジ、十数か所もあると聞くサッカー練習場には、何百室もあるアパート群があり、3千、4千人といわれる除染作業労働者の住んでいます。ピンハネされた労働者が住んでいるのです。何百台もの自家用車ナンバーから、大阪ナンバーを発見、派遣労働者などが全国から集められている様です。その深刻さをこの目で見てガックリしたのでした。

 翌日、この富岡町の避難者が昨年11月から住む仮設住宅、いわき市にある90戸の住宅を全戸訪問しました。
 自治会長さんに、「滋賀からのおコメを全戸にお届けにあがりました」と、ごあいさつ。続いて2人組で4組が各家を訪問しました。どこでもいやな顔をせず、応対されましたが、悲しかったことは多くの住民が、昨年11月まで2年近く、家族はなればなれで、4~5ヶ所を転々としてきたことを、淡々と語られたことです。

 私も、政府がなぜもっと早く仮設住宅を建てなかったのかと、強い怒りを感じました。

 もっと悲しかったことは、私が対話できた10数軒の方はほとんどの皆さんが、「富岡町に4、5年で帰れないし、もう帰りたくない」、「家も再建できません」と普通の口調で、これまた淡々と語られたことです。また口々に安倍首相の「収束」宣言に対して、「収束などしていません!」とも!

 現実を痛感したのは、原発に従事している家族も、約3分の1、4~5軒もあり、「原発収束宣言を撤回せよ」の署名は遠慮されましたが、政府と東電への怒りは当然ながら、収まらなかったことでした。

活動の打ち合わせ(共産党の救援センター) 現地での2日間の見聞体験でしかありませんが、地震や津波のような自然災害でない、まさしく人為的被害とも言える原発被害をなくす道は、福島のみなさんも、いま取り組んでおられる「収束宣言を撤回せよ」、「福島県内10基の原発の廃炉」、「賠償せよ」の切実で、かつ緊急な要求を掲げた署名運動です。全国で広げて、政府に実行させることだと痛感しました。